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  • 執筆者の写真Kaleialoha

My Dance History 6


























フラを初めて来年で30年。

私は幼い頃から踊りをしていたので踊り始めてからは今年で46年(笑)

自分の人生の中で踊るという事がほぼほぼ占めている。

30年を目の前にして、私のDance History を

気ままに書いてみようと思う・・ 

⑤を読まれていない方は、こちらから先にどうぞ。

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⑥さようなら、バレエ教室


暗黒の中学時代だった頃、

週3回のバレエは欠かさず通っていました。



保育園で始めた居残り組の隣のバレエ。

2年に1度、時には年に1回や2回発表会や公演がありました。

始めた頃は、生徒さんが100人以上もいて発表会も豪華に。

それが、私が中学3年になった頃は、半分、いや、それ以下になっていた様でした。


私より年上のお姉さん達は高校の受験で次々やめてしまっていて

長く続けているのはもう、私一人。

そのお姉さん達は、高校の国体、体育大での新体操で好成績を残す

有名な選手になっていました。


お姉さん達がバレエ教室を離れてしまった後の私は

お化粧も自分でできるようになっていましたが、

毎回、発表会当日に熱を出す子供でした(笑)


バレエの先生は、一般的な”バレエの先生”とは違い。

年々色々な踊りのジャンルに進んでいき、

インド舞踊などもやる様になり、インドに海外研修に行くお誘いも頂きました。

私達も見よう見まねでインド舞踊を習い、発表会では長ーい爪のようなものを手に付け、

シンバルの小さいもの?を鳴らしながら踊った曲がありました。

1回しか着る事の無い衣装代もかなり高価になっていきます。

でも、母は、それも何も言わずに出してくれました。


発表会での先生のソロは、全身を金色の塗料で塗った体で表現した踊り(モダンダンス?)や

マッスルな男性が先生と踊るダンス。


さすがに先生は??

私は次回これをやれって言われたらどうしようとか。の不安・・・

その頃から、居残り組の隣のクラスのバレエ教室は

舞踊研究所になっていました。


高校受験。


少しずつ一番上の兄から勉強の仕方を教わるようになり、

お蔭でその時の担任の先生から2つ推薦を頂く様になっていた(笑)


その2つは公立高校。

母子家庭なので、なるべく学費がかからない様にと先生が考えてくれた様でした。


先生が家に訪問し、母と話しています。

母は、丁寧にその2つを断り、私を私立の付属高校へ進学させたいと返事をしていました。

兄2人は既に関東の国立大に入学、そして私は私立の学校と

学費だけでも大変だったと思います。


私は、

母の希望通りの高校へ進学。


同年に舞踊研究所の発表会も開かれ、

当日も。。。。

熱を出しながら踊りました。


名前を間違えて呼ばれた後(笑)

私は長い間所属した生徒として表彰をされ、

先生から将来のお話を頂きましたが、

この舞踊研究所を離れる事にしました。


バレエのお稽古に救われた私の思春期。

しかし、その時はもう、

それが無くなる不安も、

寂しさもありませんでした。



そして、これからは

私と踊るという事が

運命的につながっていくのです。。






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